2ヵ国目 ラオス(6/9-6/13)~『教育する』ということ『教育される』ということ~
無邪気にウォーターフォールで遊ぶ子ども。この表情に注目した。この世の全てがここに凝縮されているような気がして思わずシャッターを切った。
ふとマレーシア生まれ、ラオス在住のムスリムであるオーナーと話すことになった。僕が小学校の先生をしていたことを伝えると、会話が弾みラオスの教育問題や日本の社会事情についたディスカッションすることになったのだ
オールイングリッシュだから、半分わからなかったけど、
質の高い会話をしていることはなんとなく感じた。
理解できる範囲で要約すると
それに対して日本の教育問題や自分の思っていることを英語で言えないことが悔やまれる
さて、本題に入る
ナイトマーケットをブラブラしていると、物売りのなかに子供が混じっていることがよくある。
作戦のうちかな?と思いはするもののなんとも可愛いのでつい買ってしまいたくなるものだ。
とあるこどもがこんなことを言った。勿論英語なのだが
『30000キープで売ってますよー。』
僕は思わず
日本語で
『買おうかなー』と呟くと
その子どもは
『ディスカウントするよー。25000キープにするよー』
と立て続けに言ってきた
値段交渉にも入ってない段階でディスカウントをカミングアウトしてしまうところが
それが可笑しくて、あどけない感じもしたけれど
きっと親に
『外国人に値段交渉をするようになるから、ディスカウントするんだよと』と
「教育」されているのだと思う
子どもに「教育」するとはきっとこういうことなのだろう。
あるべきことを刷り込むこと。
1+1=2という計算も
そうなるべきものだと教えられ、それで大人になって生きていく。「なんで1+1=2なの?」「大きいボール1こと小さいボール1こを足して2と言えるのはなぜか。なぜ1.5にならないのか。」ふと立ち止まって思考せずに素通りしてしまう。環境や年長者によって教え込まれてきた刷り込みを疑うことなしに。
僕の刷り込みはたくさんある。
英会話の苦手意識の真相であったり、実際の会話のテンポ、外国人たちの会話からあふれでる国民性、ギターの面白さであったり、象の肌触り、スコールの凄さ、メコン川やチャオプラヤ川を目の当たりにしたときの感覚とか…
たったラオス一か国でこの量だ。これから旅のことを考えたら学ぶ量半端ねぇなと思っている。
書の勉強もいいけれど、本物の経験に勝るものはないなぁ。
いつしか、ナイトマーケットの少女も相手のかお色をみて言うことを考えたり、流暢な外国語を駆使したりして自ら学んでいくのだろう。
刷り込みは、環境や経験によってやんわりと姿を変えていくのだ。あたらしい自分が創られていく
子ども時代は刷り込みの時代。そう割りきってもイイのと違うかな?教えるということはそういうこと。教えられた側は、それをもとにやんわり姿を変えていけばイイ。やんわり刷り込みを変えるような異質な他者とどうでわせるか、ここが親や教育者ができる限界点。あとは、教育されるもの次第だ。運もある。僕が世界旅だったのも偶然の出会いがほとんどだ。
なんやかんや書いてきたが
願いはひとつだ。
冒頭で示した子どものような笑顔が一人でもおおく増えていきますように。僕たちは、僕たちにできることを考えていこう。それぞれの立場でそれぞれの年代に応じて。そして、決して、出来ること(「当たり前」)の壁を自ら高くすることなしに。
こんな感じで未来に向かってdiveしていくぜ!
2016/6/13