3か国目パート③ チベット
宗教の奥深さを感じたチベット。
寺に拝みにくる人々が五体投げ地する姿を見て、
人とは何ぞや?
来世を信じること、死後の世界を願うその信仰心はどこからくるかや?と、思考停止に陥った。
日本では、周りを気にすることなく地面に伏せ伏す人なんてみれない。奈良のお寺とかあっても、ゴリヤクを願う軽い信仰心を感じてしまう。
一方、田舎のチベットの村は、それとはかけ離れている生活をしているようにも思う。
やくを育て、その糞を壁に塗りたくり、乾かして燃料にしたり、共同で畑を耕す姿をみたり……。その日その日を生活する人々の姿。来世の姿を願う様子なんて見られないや。
自分に問う。
自分は何を信じて生きているのか。
どこをめざして生きているのか。と。
チベットの人々の信仰心が語りかける。
算数を学んで何になる。
社会を学んで何になる。
立身出世はいかほどのものなのか。と。
多くの日本人が頼りにしている「当たり前の生活」という土台や、「楽観視する未来の姿」にふと立ち止まって考え続ける。
なんで、今、私はこんな苦しいおもいをして一生懸命になっているのか。
一生懸命になる方向性は、自分の納得のするものなのか。
納得なんて後からついてくる結果論だと思う。しんどいこともアノときの経験があるから今があると言えるのが、人生だと思う。そうやって人は納得して歳をとるんだ。
どんな方向を選んでも「正解」なんだ。ただ、若いときにしかできないこともあるはずだ。今、自分に出きることはなにか?行動を変えるエネルギーがある20代だからこその選択もあるはずだ。
そうやって「青春の門」をくぐって大人になっていくのだろう。
チベットの人々の生き方も「正解」だ。中国資本によって「便利」になっていく生活を選択する人々も「正解」だ。
相対主義的な結論に納めようとしているのではない。
大切なのは、
立ち止まって考えること。
議論すること。
悩むこと。
しくじること。
立ち上がること。
一直線で生きるチベット人の生き方は
自分の生き方について立ち止まって考えるよい機会になった。
日本に帰って、子どもに伝えたいことはこのあたりなのかぁ……。まだまだ迷いますよ。
次はウイグル地区です。